みやこ町
みやこ町は、総面積約151km²で、福岡県の北東部に位置し、東は行橋市と築上郡の築上町、西は田川郡の添田町・赤村・香春町、南は大分県、北は北九州市小倉南区に接しています。
平成18年(2006) 3月20日、京都郡の勝山町・犀川町・豊津町の3町が合併して、「みやこ町」が誕生しました。
人口 | 18,838人(令和2年国勢調査人口) |
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面積 | 151.34km² |
URL | http://www.town.miyako.lg.jp/ |
産業 | 一次産業就業者数703人 二次産業就業者数2,554人 三次産業就業者数5,041人 |
名産 | ゆず加工品、帆柱茶、みそ、九州菊、かずら筆、 |
周辺のイベント
みやこ町花しょうぶまつり
6月上旬
豊津花菖蒲公園は、みやこ町を代表する菖蒲の名所です。見ごろを迎える6月には、3,000株、約4万本もの花菖蒲が、白や紫の花を咲かせます。「みやこ町 花しょうぶまつり」では、菖蒲の開花に合わせて、特産品販売、俳句作品展示、ステージイベントなどの多彩な催しが行われます。
みやこ町夏まつり
8月下旬
出店のほか、勇壮な和太鼓演奏などのステージイベントや、「サン・グレートみやこ」にて戦没者・物故者合同追悼式(慰霊祭)が行われます。最後に約一千発の花火が打ち上げられ、みやこ町内外問わず、毎年沢山のかたがお越しになります。
みやこ町産業祭 よってこ犀祭inみやこ
11月下旬
各種団体によるステージイベントや約40店舗の特産品等を販売する出店があります。 また、体育館ではフリーマーケットや農林産業紹介コーナーの開催など、盛りだくさんの内容で実施します。 みやこ町の豊かな自然で育まれた新鮮な野菜や特産品をぜひご堪能ください。
豊前国分寺三重塔まつり
2月下旬
国指定史跡の豊前国分寺跡で「三重塔を活用した地域おこし」をテーマに、俳句大会、護摩焚き、火渡り、野点、特産品販売など、多彩な催しが開かれています。
周辺のスポット
永沼家住宅
江戸時代後期の天保十年(1839年)に建築された家屋で、桁行20m、梁間11mの規模を持つ入母屋造り茅葺の民家です。永沼家は、江戸時代を通じ地元の庄屋をつとめました。大きな木材がふんだんに使用され、当時の庄屋さんの生活ぶりがうかがえます。
豊前国分寺三重塔
奈良時代、聖武天皇の勅願により全国の国ごとに建てられた国立寺院です。創建当時九州東北部の文化の中心でした。戦国時代末期の兵火で焼失しましたが、江戸時代の元禄年間にほぼ復興。三重塔は明治29年に10年がかりで再建されました。塔の高さは23.5m、九州に3つしかない築100年を超える古塔です。
みやこ町歴史民俗博物館
みやこ町の各遺跡から出土した遺物や豊前国府・国分寺、豊津藩関係資料など1万点を超える歴史的資料を所蔵しています。また、夏目漱石の門下生でドイツ文学者・小宮豊隆ゆかりの資料も多数所蔵されており、夏目漱石からの手紙など全国的にも貴重な資料が収められています。
橘塚古墳
一辺約40m、高さ約7mの方墳で豊前地方を代表する古墳として国の指定を受けています。石室の構造などから6世紀終わり頃の構築と推定されています。黒田小学校校庭に所在しており、子どもたちは古代の文化に接しながら地域の歴史を学んでいます。
甲塚方墳
長さ46.5m、幅36.4m、高さ9.5m、まわりの周溝を含めると長さ約72m、幅63mにもなる大型の方墳(平面形が四角となる方墳)で、このタイプの古墳としては、九州でも最大級の規模をほこります。古墳は整備されていますのでいつでも見学できます。
じゃぶち森のビレッジ
福岡県森林浴100選にも選ばれた自然豊かなキャンプ場です。夏には水遊び、冬には雪遊びが楽しめるよう、冷暖房、バス、トイレなどを完備したコテージが整備され、1年を通じて利用できます。
蛇渕の滝
英彦山系の豊かな水を集め、高さ10mの岩壁を白糸のように流れ落ちる蛇渕の滝。「その昔、大蛇が棲んでいた。」という伝説もある滝壺のそばにたつと、ひんやりとした空気に包まれ神秘的な景観が楽しめます。
障子ヶ岳城跡
障子ヶ岳の山頂にある中世の山城跡で、14世紀前半に足利統氏が築城したと伝わります。天正15(1587)年まで存続したことが確認されています。 この城を舞台とした最後の戦いは、秀吉の九州平定に先立つ前哨戦で、秀吉の軍師、黒田官兵衛が九州でのデビューを果たした戦いの舞台となりました。
蔵持山修験道遺跡
蔵持山は、「英彦山六峰(ひこさんろっぽう)」の一つに数えられる豊前(ぶぜん)地方屈指の霊山で、千年以上の歴史をほこります。山内にはその歴史にふさわしい数々の遺跡が残され、一部は今なお信仰や生活の場として利用されています。
郡長正の墓
郡長正は会津戦争敗北の責任をとって自刃した会津藩家老・萱野権兵衛の次男で、会津藩再興の命を受け、明治4年に会津藩士の子弟6人と共に小笠原藩校「育徳館」の留学生として学びました。経緯は諸説ありますが、明治4年5月1日に育徳館南寮の一室で切腹により自らの命を絶ちました。彼の墓は、故郷会津を向いています。