福岡エリア
邪馬台国の時代に糟屋地域を支配した王の墓
「光正寺(こうしょうじ)古墳」
町の北西部に位置し、3世紀後半頃に築かれた糟屋郡内最古期で最大の前方後円墳(全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成)です。邪馬台国時代の不彌国(ふみこく)の王墓ではないかとも考えられています。周辺は、史跡公園として整備され、築造当初の古墳の模型が、ガイダンス広場に5分の1のサイズで復元されています。発掘調査出土品は、宇美町立歴史民俗資料館で展示しています。
四王寺山に築城された日本最古の古代山城(日本遺産)
大野城跡
大野城跡は、宇美町・太宰府市・大野城市にまたがる四王寺山にある古代山城です。城の範囲は、東西約1.5km、南北約3km範囲であり、大野城跡最大の石垣「百間石垣」や「増長天礎石群」など、城の範囲の約80%が宇美町内にあります。重要な遺跡であることから、国特別史跡に指定されています。また、日本遺産「古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~」の構成文化財となっています。発掘調査出土品は、宇美町立歴史民俗資料館で展示しています。
戦争の記憶を留める、伝えていく
筑前町立大刀洗平和記念館
戦前、この地には旧陸軍が東洋一を誇った大刀洗飛行場を中心とする一大軍都が存在し、歴史的な役割を果たしながら大きく発展していきます。しかし、昭和20年(1945)3月、米軍の大空襲により壊滅的な被害を受け、民間人を含む多くの尊い命が失われました。 また、この飛行場は特攻隊の中継基地として、数多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でもあります。 ここでは大刀洗飛行場の概要や、航空技術の発展、空爆や特攻に関する歴史を伝えるため、当時の貴重な資料を展示しています。現存する唯一の「零式艦上戦闘機三二型」、「九七式戦闘機」に加え、「震電J71W」の実物大模型の展示、シアターでの映像上映や朗読、また毎年3月27日には「ピース・キャンドル」を行い、全国に平和の大切さを訴え続けています。
筑豊エリア
南良津唐戸(ならづからと)
長崎街道沿いに立地し、遠賀川とそれに注ぎ込む水系の治水を目的としていたと考えられる水利施設。河川改修以前は、大唐戸と小唐戸で成り立っていたと考えられる。 現存するのは小唐戸のみであるが、使用されている石材と細工は当時の治水にかける執念と苦労をしのばせるものである。
県内唯一の宮内庁一等陵墓参考地
河内王の墓
香春町鏡山には、宮内庁が管理する墓地があります。これは福岡県内唯一のものであり、河内王の墓といわれています。河内王は天武天皇の孫といわれ、大宰帥(だざいのそち)として都より下向中、鏡山に住む手持女王(たもちのおおきみ)と恋に落ち、死後ここに葬ってほしいという遺言の下に墓地が作られたのがここといわれています。手持女王が詠んだ切ない恋の歌は万葉集に収められています。
香春町内にある種田山頭火の万葉集歌碑です。
山頭火遊歩道
種田山頭火は、彼を支えた現・糸田町の医師、木村緑平を何度も訪ねたことから、香春町にもよく足を運びました。香春岳や町の自然を詠んだ句が碑に刻まれています。
財蔵坊(添田町歴史民俗資料館)
財蔵坊は国史跡「英彦山」の一つである。 かつての英彦山修験道の山伏坊舎であり、小形ながらほぼ全景をとどめている貴重な建造物である。 現在は添田町歴史民俗資料館として活用。
旧亀石坊庭園
旧亀石坊庭園は英彦山修験道坊家の代表的な庭園で昭和三年(1928年)に国指定名勝に指定された。 広さ699平方メートルの池泉観賞式の庭園であり、雪舟の作庭と伝えられている。
旧数山家住宅
旧数山家住宅は天保13年(1842年)の建築で、寄棟造り茅葺きで床上部と広い土間、厠、倉庫を取り入れた直屋の好例で、この地方の特色をよく現わした建造物であるとして昭和53年(1978年)1月21日文化財保護法により重要文化財に指定された。
国の名勝に指定された庭園
藤江氏魚楽園
国の名勝に指定された庭園。室町時代の画聖雪舟が神仙蓬莱思想に基づいて築庭されたものとされ、池中の中島は亀を表し蓬莱島と称され、また、一の滝と二の滝があり池全体で鶴を表すなど蓬莱の手法をいかんなく表現しています。四季折々に美しい表情を見せ、特に秋の紅葉は必見です。開園状況については、お電話にてご確認ください。(現在、休園中)
直径20メートル、高さ3メートル、横穴式石室をもつ円墳。
建徳寺2号墳(町指定史跡)
建徳寺2号墳は、直径20メートル、高さ3メートルの大きさの円墳で、今から1400年前の6世紀後半に造られました。古墳入口はふさがれた状態でしたが、石室の天井石が失われていました。石室内部から須恵器、刀、馬具、やじり、耳環、管玉が出土しました。出土品からこの地域の権力者の墓と考えられます。 調査終了後、古墳は現地保存され、公園として整備されています。
平成筑豊鉄道田川線赤駅~内田駅間にある三連アーチ橋
内田三連橋梁
1895年に竣工された内田三連橋梁は、文部科学省の登録有形文化財に指定されており、下流側と上流側でレンガの積み方が異なっています。
筑後エリア
ロマンあふれる大刀洗町の遺跡
国史跡 下高橋官衙遺跡
奈良時代の群役所跡。大溝で区画された中に倉庫群が建ち並ぶ「正倉院」、大規模な長舎建物が建ち並ぶ「群庁・曹司院」が東西に並列しています。
双塔ロマネスク風様式のレンガ造の教会
国指定重要文化財 今村天主堂
1913(大正2)年竣工の煉瓦造教会堂。当時教会造りの名工と言われた鉄川与助の設計施工によるもので、双塔を正面に配したロマネスク風様式です。ステンドグラスからの透過光は荘厳です。
北九州エリア
縄文人骨が多く出土した事で有名な西日本を代表する貝塚
山鹿貝塚
昭和28年に発見された山鹿貝塚は人骨の多さ、装飾品の豊富さなどから、県指定の史跡となっています。昭和37年から発掘が始まり、20体以上の縄文人骨が発見されています。特に2号人骨はたくさんの装飾品から、指導的地位にあった女性だと考えられ、全国的に有名です。
文化庁「歴史の道百選」に選定された堀川の歴史が学べます
堀川歴史公園
堀川開削に関わった福岡藩6代目藩主黒田継高が祭ってある河守神社と連続してこの堀川歴史公園があります。江戸時代に行われた堀川の開削工事の最大の難所、福岡県指定史跡「堀川 吉田・大膳間の切貫」付近に位置し、堀川の歴史を分かりやすく絵物語にしたレリーフが設置されています。
弥生時代の指標となる土器が出土
城ノ越(じょうのこし)貝塚跡
弥生時代の貝塚を主体とする遺跡で、1952年と1958年の2回にわたって考古学協会による学術調査が行われています。遺跡は丘陵の裾部に所在し、ヤマトシジミを主体とする多数の貝類や動物骨が発見され、当時はこの近辺まで内海が広がっていたことが分かります。遺跡から出土した土器の一部は「城ノ越式土器」と命名され、弥生時代中期初頭ごろの土器の指標となっています。
学問の神様が腰かけた石
菅公(かんこう)腰掛石
お仮屋公園の一角にあり、菅原道真が旅の疲れを癒すために腰掛けたという言い伝えが残る石。実際に座ることができるので、学問の神様にあやかって腰掛けてみてはいかが?
奈良時代に造られた登り窯
友枝瓦窯跡
奈良時代に現在の町立南吉富小学校付近に建立されていた垂水廃寺へ瓦を供給するために造られた地下式の有階有段登窯です。内部には瓦を置くため、階段状の段が17段設置され、最上部に煙出しの穴が二つ開けられています。朝鮮半島の新羅系や百済系の瓦が出土しています。
謎の多い山城跡
唐原山城跡
7世紀中頃に築造されたと考えられる山城跡です。自然の山を利用した城で、北部九州で12の城が確認されており、その中の1つです。朝鮮半島における唐・新羅の連合軍による百済滅亡を軸に展開した東アジアの動乱に対処するため、大和朝廷が敷いた国防ラインであると考えられています。
山国川流域屈指の巨大石室墳
穴ヶ葉山古墳
山国川流域屈指の巨大石室墳です。墳丘の直径約30mの円墳で、周囲には馬蹄形の周溝が巡らされています。内部の石室は巨大な一枚岩により造られ、全長は約10mあり、壁面には鳥や木葉、人物などが描かれています。出土した遺物から6世紀末から7世紀初め頃に築造されたものと考えられます。
奈良時代の豊前国上毛郡役所跡
大ノ瀬官衙遺跡
奈良時代の郡役所跡です。律令期にこの地域は豊前国上三毛郡の中心として郡役所が置かれ、郡内の政治・行政の中心でした。遺跡としての保存状態が良いことから、建物が配置された様子が分かり、具体的な構造を知ることができます。
城井ノ上城跡と三丁弓の岩
宇都宮鎮房ゆかりの地。「城井ノ上城跡」は周囲を岩壁に囲まれた地形で、村人などが避難のため籠る場所だったと思われます。 「三丁弓の岩」は、独立状の巨岩で、ここで攻め手を防ぐのに「三丁の弓をもって足りた」ことに由来すると言われています。